図書室

床が濡れています。ここにあるのは積みあげることができるものばかりで、広がって床を濡らすものなど何もないのに、と思って見直してみると、それは水ではなくて光でした。窓ガラスを通してはいってきた光が、かげろうになって空気をゆらしていたのです。あけはなたれた窓からは、草と埃の匂いが入りまじった風が吹きこんできています。ゆれます。白いレースのカーテンが、風にめくられるたびに光がめくられているような、わたしがめくられているような気もちになるのです。

本棚から気まぐれに本を一冊選び出して開いてみると、生きものの身体のことが書かれていました。生きものの消化器官には、細かなひだひだや突起がついているらしいのです。それらをすべてのばすと、たとえば人間の小腸は、百二十畳分の平面になるのだそうです。わたしのなかにもそんな広い空間があるのでしょうか。とても不安です。わたしは自分に食べられて、そういう広いところにおりていってみたいと思いました。

でもこわいような気もしました。人の身体にはいることは、それがたとえ自分であったとしても、苦しいことにちがいありません。それに自分の思った通りのところに行き着けるのかも疑問です。迷ってしまうかもしれません。消化されて、何も見ないうちに外に押し出されてしまうかもしれないのです。たよりない気もちだけが、こだまのようにわたしの身体の中をはねかえってゆきました。本をめくっていくと、どのページにも細かい文字や図がぎっしりと書かれているのでした。それが重なりあっているのが本なのだと気づくと、わたしの身体と似ているように思え、それまで乾いた紙にしか見えなかったそれが、急にしっとりとぬれたものに思えてくるのでした。

わたしは、ほかに人気のない図書室でその人がやってくるのを待っていました。やがて廊下から、ひたひたと重たい足音が近づいてきます。わたしは待ち遠しいのになぜか少しこわい気もして、机の下に身を隠しました。しゃがんでいると光の筋の中に、埃の群れが見えました。みんな白く光って、のぼっていくでもなく落ちていくでもなく、ただただよっているのです。ひんやりした感触が、足の裏から伝わってきます。冷たい空気の粒子が、わたしの身体を繭のようにくるみます。うまく隠れたような気がして、本当にこのままその人がわたしを探し出してくれなかったらどうしよう、と冷や汗がにじみました。けれども心配はありませんでした。その人はすぐにわたしを見つけ、わたしをひょいと持ち上げて、高い本棚の蔭に連れてゆきました。

その人がわたしを見つめます。黒い水の球の中に、わたしは閉じこめられていました。遠い時間の彼方にいるように見えました。その人の瞼が、瞳に映ったわたしを包むように閉じてゆきます。わたしの身体の中にゆっくりと熱が起こり、身体を内側から縛ってゆきました。わたしはその熱をただその人に伝えたかった。でもその人の身体にはどこにも入り口がなくて、どうやっていれたらいいのかわたしにはわからない。わたしの出口もどこについているのかわかりませんでした。自分を見ようとすると、自分を見るための目がわたしについていないことに、いまさらながら気づくのです。眼球はわたしの身体の表面に張りついていて、ひっくり返して身体の中身を見ることはできないのでした。表面も、見ることができる場所は限られています。かろうじて見えるものを頭の中に思いえがこうとすると、するっと皮のようなものが身体からはがれます。

わたしは、いつまでも玉葱のように、自分の皮をむきつづけているのでした。はがれた皮は薄く透けて足もとに落ちてゆき、気がつくとその人がそれをひろいあつめて、かたっぱしから食べていっているのです。その人は次第に太って、大きな肉のかたまりになってゆきます。やがて落ちているものでは飽きたらずに、わたしの皮膚に直接ふれてくるようになりました。その人の指はあたたかく、皮膚の奥の方まで厚く感触が重なっているようです。その分厚い皮膚がわたしにふれると、わたしの皮膚はたちまちめくれて、筋肉や内臓までつかまれてしまうような気になります。わたしはひらひらとはがされていきます。それをわたしは、望んでいたのでした。

わたしは、その人の指を使って自分を読みとこうとしていたのかもしれません。それは、終わりのない読書のようでした。わたしの身体のなかのひだひだが大きく広がって、図書室を埋めつくしてゆきます。わたしの知らない世界がそこに広がっていたのです。ひだひだがひとつずつ動いて、知らない生きもののようです。そのうえにその人がいました。広大な襞を抱きしめるようにして、そのうえをはっているのです。その人の舌が、わたしの知らなかった小さな襞にふれてゆきます。ふれられた部分はしびれるのです。やさしく、それでいてちりっちりっと痛いのでした。

わたしははじけてしまいそうになり、拒むように襞をふるわせました。表面がうるおって水が満ちてきます。浮かびあがりそうになったその人が、声を発しました。わたしはその細い糸のような声をぐっとつかんで、引っぱってみました。するとその人の身体もほどけて、めまいがするほど大きくやわらかいものが突然わたしの前に広がっていたのでした。わたしには読みとることはできません。ただはってゆくしかないのです。襞と襞がこすれて、ちくっちくっと痛みが走ります。わたしたちはおたがいの形を見ることができず、ただおたがいをさわることで形をたしかめるしかありませんでした。

熱がわたしの身体をかけめぐってゆきます。その人も、わたしと同じように熱を感じているのでしょう。平面がふれあうとき、混じりあうことはできずに、そこにはただ熱が生まれるのです。近づこうとして、寄り添おうとして、それでいて混ざることはできないのです。わたしは、ぴったりとくっついていながらまだその間に横たわっている距離に、発熱しているのでした。その熱さが痛いのでした。そうして光に変わるのでした。わたしはそのとき直感したのです。

発熱することが命なのだと。

図書室の中は白い光で満ちています。いつかその光も消えるときがくるのでしょう。ふれあう痛みも、混ざれない悲しみも、みんな混ざって闇のなかに帰ってゆくのです。でも、その人の熱にふれていると、そんなこともゆるせる気がしました。床を見ると、わたしたちの影がひとつに混ざり、そのときだけの模様になってゆらゆらゆれています。いつのまにか窓の外は夕日に赤く染まって、きょうという日が薄い皮になって、はがれ落ちようとしているところなのでした。



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