あしたピクニック・シートの上で

そしてもう一度扉が開いた。夢の中でわたしは歯を磨いていた。廊下は大群になって走っていたが、窓ガラスはぴかぴかに透き通っていた。リボンが揺れている。ピクニックに行きたい、とあなたは言った。そしてもう一度扉が開いた。スイッチはどこ? 扉が開いてあなたがはいってきた。出口のような、入口のような。どこまで歩いても部屋には着かない。

にじんでゆくの。わたしといろいろな人。記憶の中に咲いている人影は、みんなほんとうにいたのです。あのとき、校庭に。だれも何も疑わず腕を振り回していた。だれかがだれかを追っている。わたしは砂糖水みたいに欠けている。でもあそこに戻れるわけじゃない。戻ったような気がしていても、皮が引き剥がされるように、またビル街のなかにいる。鋪道は湿っている。雪の跡だ。試験を受けに行くのだ。妹はまたコートのボタンをかけ違えている。目が覚める。受験番号を書くのだ。わたしは数字になって定着する。目が覚める。扉が開いて、わたしは歯を磨いている。

磨いたり、伸びたり。あそこにいるのはわたしじゃない。それだけはたしかなことだと思っていた。いた、というのは正確ではない。なぜならそれは未来のことかもしれないから。時間はいつも裂けている。あした、あさって、しあさって。浮き上がってくる。顎をあげて、空を見上げて。お尻が痛い。あしたわたしはあそこにいるかもしれず、別の場所にいるかもしれない。キーになって。あるいはチョークになって。増え続ける。あしたはいつもぶれている。

どこに浮かび上がり、どこに染み込んでいくのだろう。「エノラ・ゲイを展示」*、と壁新聞に書いてあった。わたしたちにはどぶ川の匂いがする。今年も春がやってくる。「死者六三〇八人、神戸中心に壊滅的打撃」*、と壁新聞に書いてあった。駅までの道を歩いている。カジムラ整形外科、太田小児科内科、こすげ歯科クリニック。アスファルトがあたたかい。「解散命令確定、破防法も適用」*。「円、七九円台に突入」*。大同物流の長いトラックが6×21列のプロパンガスを運んでゆく。踏み切りまでずっと青信号が続いている。交番、JA、郵便局。つるっと光るコンニャク。また駅までの道を歩いている。

ばらばらになっている。紙束。記憶。わたしという塊。穴から言葉がぞろぞろ出てくる。あれもこれも生きてる。言葉のことはもう心配しなくていいんだよ。夕日が沈んでゆく。答えがないことにまた耐えなければならない。蜘蛛の巣が光っている。水滴やそこに映る緑やもう壊されてしまったモノレール。不安だ。あんなに美しいのに、どれも偽物かもしれない。切符は。そこに書かれた数字は。階段は。そこにとりつけられた黄色いぶつぶつは。わたしは自販機を見ていた。いつも目の前に細い穴が開いている。どこに行くんだろう。駅から駅まで続く柱は。そこに書かれた数字は。どこに走っていけばいいのだろう。幻の身体がぎしぎしと痛み、空にむかって伸びている。

文字があらわれる。いつもうしろから。わたしは覆いかぶせられる。文字はわたしを引き裂いて、別の文字を引きずり出す。TTAGGG。文字を綴りたいとは思うが、それがわたしでなくてもよかった。TTAGGG。振り返るとわたしはいつも割れている。ひとつ、ふたつ。どれにも瞳がついているが、見ているとはかぎらなかった。走っていく。でもそれはうしろではないのかもしれない。戻るのでも、進むのでもなく、ただ動いている。

扉は開いたが、それが扉かどうかだれも教えてくれなかった。わたしは外に出た。道なんてなかった。世界は粉々になって、顔のまわりを漂っていた。人は枝となり、金色に輝き、茂っている。動くことはうつくしい。どこに行くんだろう、これからどこに行くんだろう。心なんてなくても平気。この風景さえあれば。時刻表。ダイヤグラム。路線図。果てのないピクニック。言葉はどんな生き物も産まなかったし、これからも産む心配はない。安心だ。バスケットも水筒も持ったし、空は晴れている。光。人々。ばらばらになったわたしたち。放物線のように生きたい。金色のうつくしい枝が燃える。断片になって、断片になって、断片になって。数え切れないほど。結びあっている、ただそれだけの細いもの。金色のうつくしい枝が燃える。裂けてゆくの。壊れてゆくの。断片になって、断片になって。金色のうつくしい枝が燃える。

あしたはこの扉を開いて、ストローを立ててピクニックに行くのだ。空には大きな歯車がいくつも回り、地下には数字がひしめいている。わたしはあなただったのかもしれない。水の中で細い草が揺れている。松明のように。木霊のように。あしたはこの扉を開いて、ストローを立ててピクニックに行くのだ。ばらばらになった地面の上を巨大なピクニック・シートが覆っている。何度も何度も扉を開けて。走ってゆく。身体の向こうへ。ピクニックに行くのだ。赤と青と白の縞々の上で。何度も何度も扉を開けて。


*はすべて『報道写真 '96 写真でつづる1995年』共同通信社


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