いつもいつも僕はどこかひんやりしていたから。寒天や蝶を追いながらどっか嘘だって思っていたから。椅子に座って、座ることに耐えられなくても、ゆらゆらなにかが光っているから。燃える点みたいに、やってくるから。そんなことがなんなのかわからなくたって、結局僕は手を伸ばす。薄暗い、部屋の隅で。
あたしたち、どうしてここにいるんだろう? ずっと夏の空の下で。プールに水しぶきがあがって、見えないとこばっか見つめて、ずっとなにも考えてない気がする。そう、考えが上をすべってく感じ。ずっとずっと上の方。つらいな、って思うことはあるけど、なんだかみんな絵空事みたい。前にどっかで見たみたい。屋上でお弁当、食べたよね? それともあれはあたしじゃなかったのかな?
部屋が広がっていく。目の前に扉があいてる。知らない、空色の扉。僕は近づいて扉をあける。あかるい場所がひろがっている。古い木の壁。ちょっと傾いている床。テーブルには花柄のビニールクロスがかかっている。窓から光が射し込んで、食器棚の奥を照らしている。ここはどうやら台所らしい。扇風機が回っている。だれかいないの? 風鈴の音がどこかから響いてくる。
廊下を歩いて、あの人のこと探そうとした。でも、それって無理。あたしが探そうとしても、現われたことなんかない。いつも遠くから声が聞こえるだけ。この学校って迷路。絶対に全体が見えない。嘘、って思うんだよね、いつもさ、あのブランコだって、ほんとだったかわからない。あたしは屋上に出る。遠くに見える街も観覧車も、目を閉じれば消えるマボロシ。
どこかから風がはいってくる。洗濯物がひらひら揺れて、その向こうに、真っ青な空が翻る。ここは海じゃないか。そして、今は夏。暑い。足の裏にはひんやりした床。少しだけ魚のような匂い。黒ずんだまな板と少し湿った布巾。広げられた昆布と魚の頭。ごつごつしただれかの手の甲を思い出す。ずっと遠くに船が見える。僕はビーチサンダルをはいて外に出る。遠浅の海。陽射しの下に妹がいる。水の底をのぞいて、砂から首を突き出す変な魚に驚いている。砂が暑い。うねうねと浜昼顔が這っている。なぜだろう、溺れたみたいに苦しくなる。
なまぬるい水を飲み込むみたいな。あたしはこのなまたまごみたいなものがきらい。つるつるでざらざら。割れるとねばねばして、知らないうちに吸い込まれてる。あたしはこのなまたまごみたいなものがきらい。吐き出しても吐き出しても満ちてくる。あたしがたまごの向こうに透けている。もうたまごのこと考えるのはやめたはずなのに。さびしいとか悲しいとか。あたしたちどこにいるの、みたいな答えのない疑問。おはよう、と、またあした、それだけ繰り返していよう、って。
ヒマでヒマでしかたがなかったので、僕はかき氷を作ることにした。かかれた氷はさらさらと皿にはいっていった。粉をふるうようにかき氷をふるう。いつか氷はなくなり、僕は水をかくことにした。水は氷に比べてやわらかくかきごたえがない。水をかくことは悲しい。水をかくことはみじめだと思う。そのみじめさが手から離れなくて、心に突き刺さって、また続けてしまう。いつまでも削り続けられるこれは、身体だろうか時間だろうか。皿のうえにさらさらと流れ落ちていく。
ここにいて、何度も呼び出される。おんなじこと喋って、何回も殺される。でも、あの子はまだマシだよ、死ねたから。ほんとにひどいのは、死ぬこともできないあたしたち。ずっと青い空の下で、待ってなきゃなんない。なにを待ってるか、教えてももらえない。ずっと同じ曲が流れてる。風と、海と、遊園地と、夏空と、プールと。なつかしいって思うのがマボロシだって知ってても、そうじゃないともう一歩も歩けない。歩きながら道がわかんなくなって、わかんないままこのまま迷子になってどっかに消えてもいい、って、そんなこと思うのはなんかカッコ悪いって思うけど。
僕は自転車に乗っている。ペダルを踏んでる。空気が壁のようだ。踏み続けて、踏んでる時間が永遠のようにのびて、朝が来て夜が来て、なんだかこのまま僕の一生が終わってしまうのかもしれない、でもそれもいいような気がしてくる。僕はこのままどこにも着かなければいい、と思う。着かないで、漕いで、漕いで、そのあいだだけ僕は僕のままでいてもいいんじゃないか、って思う。重い空気のなかを漕いで。たよりない、甘い、金魚の腹のような弱さをうしろに追いやっていくんだ。ざあざあと車輪が回る音とうるさい車の音と海水浴場のアナウンスといっつもおんなじ曲。腿がだるくなるけど、ちっとも進んでなくて、それはそれでまたいいんじゃないか。空が迫ってくる。見たことないほど青い空。カーブを切ると、そこは崖。いつも知らないまま道は尽きる。車輪たちは喋りながら落ちていく。
駅が見える。電車、乗ってみたいね。一度でいい。ここを出てみたい。どこへ行くってわけじゃなくて、別に目的もなくて。だからいちばん安い切符を買って、どこ行きかわかんない、最初に来た電車に乗る。電車がどんどん田舎に向かって、広い緑の草原とかに出るといいな。広い広い、むかし映画で見たみたいな、緑がうわーっと風でうねる草原。遠くには小さい家や、鳥の群れが見えるかもしれない。それで、ずうっとそれが続く。退屈になるくらいずっと緑だけが続いて、あたしはだんだん眠くなる。知らない人たちといっしょに、がたがた揺れる電車のなかで。
落ちたアイスの棒に蟻が群がっている。行くわよ、早くして。僕は着替えて帽子をかぶる。帽子のびろびろにのびた白いゴムをかじって、僕は自分の影を見ながら歩く。駅の建物は古く、あちこちが錆びている。前にもここに来た気がする。線路がずっとのびてるのを見て、僕はどきどきする。階段をのぼり、工場の油みたいな匂いを嗅いで、僕は母の横に座る。窓は重くて開かない。電車はがたがた揺れて、僕は少し気持ち悪くなる。母の声がする。缶ジュースの蓋で指を切って、指から血が落ちている。なつかしい、あたたかい、赤い液体。僕はそれを額に受ける。目を閉じる。身体のなかに音が響く。
車輪のきしむ音と、知らない人の匂い。声が聞こえてくる。だれかがとなりにいて、あたしの肩に寄りかかってる。肩があったかい。身体のなかに紐みたいなものがいっぱいになる。紐がぶるぶる震えてる。窓の外は一面の海。沖に向かって、いくつも流れてく白い箱。どこ行くのかな、あれ。だだっぴろい海がオレンジ色に染まって、大きな夕日がめりめり沈んでく。あそこを走って、走って、走って、そしたらどこに行くんだろう。
ぶわぶわとふくらんでいくオレンジ色の太陽。オレンジの街、オレンジの道、オレンジの電車。人々の顔もみんなオレンジに染まり、オレンジのなかに飲みこまれていく。オレンジの身体。オレンジの時間。オレンジの世界。海に浮いてるよ。みんな、オレンジのなかにいて、呼吸することはオレンジになること。ひとつの曲になっていくこと。
ずっとむかし、沈んでく太陽を追っかけて、オレンジの原っぱを走って、なんか大事な約束をした。でもだれとだったか思い出せない。ほんとにそんなこと、あったのかな。うまく思い出せないけど、でも絶対あったって思う。雨が降ってる。どこだろう、ここは。屋上だけど屋上じゃない。どっか広くて遠い場所。あたしは、あたしだけどあたしじゃない。街の家たちにぽつぽつと灯が点る。沖に流れてった白い箱。あれはきっと、みんな柩だったんだ。
「いつか会える?」
水の音。どこかで、雨だれが伝っている。それともあれは何かちがうものが流れる音だろうか。上の方で、風がゆっくりと動いている。雨だれが喉を伝っていく。なにもかもみんな消えてしまう。窓も、空も、音楽も、世界も。雨はいつやむのだろう。時間は腐ることがない。いつも先が尖って、乾いている。もうだれもいない。もう何もそよがない。もう何も脈打たない。ああ、だれか、遠くから僕をさわってください。いつのまにか僕もいない、薄暗い、部屋の隅で。
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